〼研のゴミ箱

マッスル研究会の構成員が自分が考えてることを表明します。

楽しむことについてアイマスしか知らないオタクが御託を並べる はせ

ダミーサークルによる宗教勧誘みたい。 はせがわです。

忙しいはずなんですけど今日だけ気持ちに余裕があるので更新します。


ここ最近?でもないか、自分もたまに記事で触れている通りオタクのひりつき案件が多いように感じます。

今回はその全体に対する論調への話です。


先ほどTwitterを開いてTLを眺めていたところ「シンデレラを楽しめるのは"担当に展開があればそれそのものだけでうれしいと思える人"」という主旨のツイートがそこそこのいいねとRTとともに回ってきました。いいね、RTそのものが賛同ではありませんが一定の賛同が得られていると仮定したうえで話を進めていきます。

結論から言えばこの言説は大きな誤りである、という確信があります。

流れとして言説の確認をしてから問題だと感じた点をぐちゃぐちゃ書いていく感じでいきます。


それではまず、この言説の中身を紐解いていきましょう。

とはいえ、自分はこの言説を出した本人でもない上にこの意見に賛同しているわけでもない、さらに言えば"シンデレラガールズを楽しめる人"でもないためここから先の話は「自分から見えている"この意見に肯定的な人たちからのオタクの見え方"」となっていることに注意してください。


おそらくこの言説は先述したような「ひりつくオタク」との対比が裏に強くあることが想像できます。

理由は対比の意図がない場合別にする必要のない言説であるからです。

「楽しめる」かどうかなんて実際どうでもいいし、楽しめていないやつが目に入らなければ楽しむかどうかを規定する必要はない、といえば少しは砕いた表現になるでしょうか。

つまり、この言説の裏には最近目につく"楽しめてないやつら"がいるのです。


それでは楽しめてないやつらの特徴とは?

それは「ひりついてるオタク」に他ならないでしょう。

担当がこんな扱いをされていて許せないモチベがわかないデレステは本気でゴミ...

楽しくなさそう。確かにその通りかもしれません。

彼らは一度考えたはずです。楽しそうなオタクってどんなだ?

その結論がささいなことに幸せを感じられるだったのでしょう。

たしかにそのような人たちは楽しそうです。それは間違いないでしょう。


それではいったいこの言説のどこに誤りを見出したのか。

それは

  • 論理として強いことを言いすぎている
  • 「ひりつくオタク」のまとめ方の問題
  • 幸せや楽しいが一面的

といったものです。



まず、この言説を見直しましょう。

「楽しめる人は"喜べる人"」となっています。

つまり楽しめる人の全体集合をA、喜べる人の全体集合をBとすると

A⊆B

を言っている、ということになります。

つまり"ただ喜べない"人、Bに含まれない要素はA、つまり楽しめている人にあらず、と言っていることと同値です。

(先ほど自分も「確かに喜べる人は楽しそうである」という解釈をしましたがこれも少し危険な解釈、ということになります。
我々はしばしば元の命題が真であることの説明やそれを元にその裏や逆が正しいことを示してしまいがちである、という良い例でしょう。)

実際には先ほどの自分の"誤った"命題への解釈である"ただ喜べる"人は楽しめている人であるが正しいでしょう。

なぜか。彼らは「ひりつくオタク」ではないであろうことが予想されるからです。

彼らに見えているのはあくまでも「楽しくなさそう」であることのみ。

言説、というより命題が正しいとできる証拠がないため、一般には成り立たないと結論付けるべきなのではないでしょうか。


次は「グルーピング」の問題ですね。

これも正直憶測だらけなので注意してください。

彼らは"ただ喜べる人"やそれに準ずるものに自分を置いている可能性が高いです。全員ではないかもしれません。自虐の意味を込めているかもしれません。

しかしこれは多くの人にうなずいていただけると思っていますがいくら数が増えた(かもしれない)とはいえ「ひりつくオタク」がマジョリティーではありません。

ただ喜べる、すくなくとも「展開に対して文句を垂れる」ことはしないオタクがマジョリティーであるでしょう。その場合、最初の命題を支持している層のマジョリティーが「ひりつくオタク」である可能性はあまり考慮しなくてもよいと考えられます。そのためその前提のもと話を進めます。



そして、彼らはどうグルーピングしているのか。「喜べる側」と「喜べないときがある側(ひりつく側)」ではないでしょうか。

これは集合の区分としては行き過ぎているくらいラフである、というのが自分の見解です。

特に「喜べないときがあるオタク」に関して「楽しめていない」で括ってしまっているのは問題でしょう。

先述した通り彼らが確かであることを主張できるのはせいぜい「喜べる人は楽しめている」ことだけであり、それ以外のオタクに関しての言及はできません。

もちろん実際に直接言及はしていないのですが……

余りにもラフに区別したうえで最初の命題のような「強すぎる主張」をするとどうなるでしょう。

結果として俺らみたいな触れ方をしていないオタクは楽しめていないやつらなんだという決めつけにつながってしまうのではないでしょうか。

(少し話が逸れてはしまいますが気に食わないこと、人に対して「そういうことしかできないかわいそうな人なんだよw」という話に近いです
問題なのは彼らの行動自体でありそこに対して「かわいそう」や「楽しめてない」といった少しずれた意見はクリティカルではないと言わざるを得ません)


意見を出すうえで対象をラフにすることは有効ですが、そのときは言っている内容が確からしいものであるか、仮定の上に成り立っているのかを改めて確認する必要があるかもしれません。



最後に「幸せ」や「楽しい」の話です。

ここまで書いてきたように、今回の命題で自分が問題だと思っている部分の核となっているのは「楽しめるかどうかについての決めつけ」です。


楽しみ方が一つだけだと思っている

方はいませんか?

公式の展開に対してごたごた無駄だと思えるようなことを考えてあーだこーだ言ってる人は楽しめてない

と思っている方はいませんか?

これはPとしてのあり方につながってくる話であると感じていますが、結論から言えばただ受け入れることもあーだこーだ考えることも大事な楽しみ方なんです。

これをわかった上であれば最初の命題がいかに強すぎることを言っているかがわかるのではないでしょうか?




ここまで「あーだこーだ」書きましたがこの命題が意見として出されるというのはうなずける話だと思っています。

実際一つ前の記事
muscleresearch.hatenablog.com

で取り上げたような「ひりつき」に関しては自分は「騒ぎすぎ」だと思っていますし見ていて心地よくはないためです。

今回の「ツイート」もこのような「不快感」が根底にあったのかもしれません。

「何も感じなかった自分はおかしいのか?」「自分はコンテンツへの触れ方が浅いからひりつかないのか?」などと不安になった方もいるでしょう。

ただ、今回のようなまとめ方は結果的に自分たちの首を絞めることにつながる、と感じています。

なぜなら主語を大きくしすぎる、共感を得ようとして感情に訴えかけようとする...といったことをした結果

主張が誤ったものになってしまう

ためです。

自分の感情は押し殺していいものではないですし感じたことや意見は表明していくべきでしょう。


しかし本質からは外れないように気を付けなくてはなりません。


最近見かけるアイマスやそのオタクに対する言説はこの部分を欠いているものが多いと感じ、少し危険である、と感じました。

例えば「ひりついてるやつがうざったい」のであればなにが「うざったい」のか、なぜ「うるさい」と感じるのかを考えてみてほしいです

その中で「そういう意見を持ちたくないから」というのが出てくることもあるかもしれません。それを認めたくないのかもしれません。

しかし長いものには巻かれることもあるでしょうし何も考えていないことに「こういう考え方があるんだけど」と言われたら「そうかもしれない」と思ってしまうのは仕方のないことだと思います

大事なのは「この意見を出している人には何が見えているんだろう」と考えてみることなのかなぁと、そう思います


ここまで長々と書いたものを読んでいただきありがとうございました。

ある程度構成を練ってから書き始めてはみましたが結構支離滅裂になってしまったかもしれません……

そして後半に関しては自分自身できているか怪しいところではあるのでより一層気を付けなくてはならないですね

精進します。多分。


[Twitterであーだこーだ言ってたらその内容とか前後の言葉とかそもそもあーだこーだ言うことそのものに知り合いから苦言を呈されたのでここの更新頻度があがるかもしれない]はせがわ