担当のSSが書きたくないお話です
どうも最上くんです。
会誌のテーマで悩んでたら「担当のSS書いちゃえよ」と誰かに言われたとき、(なんか書きたくねえな)と思った。なんでかな、普通は担当のSSなんて最初に書くべきだろうにね。ということでなんで担当のSSが書きたくないか、自分なりにまとめていこうと思います。
1章~俺って担当のこと理解出来てない!?~
担当。それはPになるために必要なもの。
はい、ということで1章です。
担当のSS書いて、めちゃくちゃ面白く書けたとします。そうすると自信満々に世に出しますね。でもそこで他人に「ここおかしくね?」って言われるかもしれない。怖い。担当のこと理解出来てなかった、書くの怖い。
第1章?おわりだよ〜(●・▽・●)
2章~お前は誰だ!~
ここでのお前は担当の事ね。
そうそうに2章です。でもここから話がちょっと深くなるかも?
担当ってみなさん好きですよね?僕は大好きです。本当に好きです。「世界中の誰よりも、オレが1番担当のことが好き」「イベラン1位取るくらい好き」なんて言わないですけど、でも確かに好きなんです。そう、好きなんです。もうただのキャラクターでは抑えきれないくらいには。
そうなると、僕の中で担当はキャラクターではなくなって人になるんです。
(余談だけどPが担当って呼ぶようになるキャラは、アイドルというキャラクターを演じてないときも好きってことでそこらへんも人になる要素にブーストかけてそう)
人になるとどうなるか。持論ですけど、人とキャラクターの違いは多面性か1面性かどうか。人は色んなキャラクターを持ってて使い分けて、キャラクターはそのひとつ。
ちょっと話は変わりまして、SSって自分が1番書きたいことを書くんですね。(当たり前のこといってるやんけ)って思うかも知れないけど重要なんですよ。つまりは、読み手のことなんてそこまで考えないで書くんです。小説とかになると、どういう読者がいて、どうしたら面白いと思ってもらえるか考えて、どうやったら売れるか試行錯誤して…。読み手を意識して書くと思うんです。だけどSSはその読み手への意識が薄い。多少は考えるかもしれないけど、それでもやっぱり1番自分が書きたいことは変えない。言ってしまえばオナニーしてるんですね。ただの自己満足。そこに成果も結果も報酬もない。
そういった文章の中で書こうとする、1番書きたいことは自分の中で、やっぱり1番好きな部分だったり気になる部分だったりするけど、共通点は「自分が1番、担当の何を見ているか」。その1番見ている点を文章に落とし込もうとすると、今までより注意深く、見ている点を見ようとする。それを繰り返していると段々盲目的に見ている点「しか」見えなくなり始める。それはキャラクターを見ていることになる。
もうお気づきかもしれないですけど、「人」として見ていた担当がSSを書くことで自分の中で「キャラクター」に落とし込まなければいけない。それがどうしても嫌なんです。
「でも、それはSS書いている間だけでしょ?」
そうかもしれない。でも、もしそうじゃなかったら?もし盲目的に見ていることに気づけなかったら?書かなければもっと素敵な一面が見れていたかも?
いやいや、そういったことは起きなかった。ちゃんと担当を人として見れている。でも周りの人は?周りの人は書いた文章のキャラクターしか見ないかも?周りの人から自分が「うどんSSの人」と呼ばれるかも?そう呼ばれ始めたら、続けたら僕の中の担当は「うどん」というキャラクターが誇張され続けていくかも?
…。
わかりやすいと思って、具体例であるうどんSSの話出したらなんか一気にコミカルになっちゃった。
…。
とまぁ、2章の締めに入ると
『僕は自分の中の担当を、キャラクターという暴力によって殺したくない』
ってことです。
第2章、完。
第3章~究極に最強で最凶な解釈違い~
ラノベにありそうなタイトルにしたけど、究極で最〇って意味被ってない?調べたら大丈夫そうだった。
第3章です。1番書きたくて、書こうとした理由の部分。さっきより長くなったらごめんね?
さっきまでの話とちょっと繋がるんですけど、担当は僕の中で生きているんです。生きているから僕の中でどんどん成長していく。成長していって、SSを書くことで、僕の知りえなかった一面をもっと見してくれて。ああ…もっともっと担当を理解していけたら、どんなにしあわs…
公式「解釈違いです!w」
は?
なんで担当はそんなこと言うの?どうして担当はそんなことするの?なぜ担当はこうなったの?
意味がわからない。そんなことをするのは僕の中の担当じゃない。公式が許せない。お前らもそう思うだろ?なあ?だったら公式に文句を言ってやろうぜ!
世間「やっぱ公式最高!神運営!やっぱ担当はこうだよな!」
は?いやいや、まてよ。お前ら俺のSS読んで喜んでたじゃん。共感してくれたじゃん。なのに?公式の言うことがいいの?それっておかしくない?
どんなに声を上げてもそれはただ供給されたものでオナニーしてた1個人の声で、供給元である神運営、公式には勝てなくて。
いやいや、なるほど。僕の中の担当にもこういう一面があったんだな!流石、神運営。天晴れ、公式。
あれ?でも僕の中の担当とまた解釈違いしてるなぁ…。なるほど。ここはこうじゃなくてこうだったのか!
そういった公式と自分の中の担当との擦り合わせを何回も何回も繰り返して、自分の中にいる担当は誰が作りあげたもの?本当に僕が好きだった担当?いやいや、違ったはずだ!僕の中の担当は、僕の中の担当でそれ以上でもそれ以下でもない!
でも、僕の中の担当って公式とかけ離れたなぁ…。ん?これって本当に担当?僕が好きな担当は僕の中の担当で、みんなが好きな担当は公式の担当で。僕の中にいる担当は本当に担当?違くない?担当と同じ顔で、同じ体で、同じ声だけど、違う心を持ってない?僕の中の担当は担当じゃなくて…、ただのオリキャラ?ああ、僕が好きだった担当はどこ?オリキャラでもなんでもない、僕の中で成長していく、大切に育って行った担当はどこ?
…ここにはもういないのか
究極に最強で最凶な解釈違いの終焉、それは他界。
第3章、これにて幕引きでございます。
最終章
はーい、最終章だよー!「最終章」と書いて「まとめ」だよー!
まとめです。なんで担当のSSを書きたくないか。
それは僕が臆病だから。
担当が理解出来なくなってしまうことが。担当が人じゃなくなることが。担当が好きじゃなくなることが。
全部が怖い。
そういえば会誌のテーマどうしよう?書かなくても許されたりしない?
あ!担当じゃなきゃどんなSSでもかけるよ!題材くれ!あと単位。
シンデレラガールズについて思うこと(全2回予定)~「声」編~ はせ
お久しぶりです~~~はせがわです~~~
今回はまあ無難にシンデレラガールズさんのお話です。
発端はよく知らないけどここ最近またTwitterとかで「全員に声ついて」とかそういう話をよく見かけるようになったのでそこについての意見です。
結論から言えば「全員に声ついて」って言ってる人は思慮深さが足りないか、もしくは自分の担当ないし好きなアイドルに声つけって言った方がいいのではないかなぁと感じます。
まず「全員に声ついて」論者、は言い方が悪いけど彼らがこの意見を出すに至った理由を考えましょう。
① 現状の声付き声無しの露出
② 「生み出した責任」
とりあえずこんなところでしょうか。漏れがあれば随時追記していきます。
それでは理由①である、「露出度の格差」について考えましょう。
格差があることについて疑問がある方はいないでしょう。
全員に声がつくことを期待している人たちは「自分の担当ないし特に好きなアイドルの露出の少なさに違和感を覚えている」もしくは「こういった状況そのものに違和感を覚えている」方々なのでしょう。
この違和感もまた、間違ってはいないと思います。
ではなにに筆者が疑問を感じているか。
それは「全員に声がつけば解消ないし改善される」という部分です。
最近であれば日菜子、光、茄子、愛海、晴などが新たに声優さんがついてくださり、結果としてSS3Aなどのライブに登場したり曲を頂いたりHARURUNRUNのようにデレステのイベにも出演したりしています。確かにこれだけを見れば「声さえつけば露出が増えて人気が出る、知ってもらえる」と思うかもしれません。
しかしこれはあくまでも「7~80人いる状態で新しく数人増えた」ときの話でしょう。「ここから爆発的なペースで声がついていって一気に100人増えた」場合に今のような露出増加は見込めるでしょうか。
また、アニメ以降で声がついたアイドルのPの中には「うちのアイドルはソロ曲もなければしんげき曲も季節曲ももらえなかった。ユニットのほかのアイドルは全員しんげき曲も季節曲も参加しているし1人はCMでソロ曲もあるのに」という人もいました。これを見て「欲張りだ」と感じる方もいるでしょう。しかし彼からすれば「担当アイドルは『声』という障壁をクリアしているのになぜこのような格差があるのか」となるわけでこれは至極まっとうな「気持ち」だと思います。
この意見で対象となっているアイドルとは別のアイドルですが、アニメにて声がついてからデレステのユニット曲と季節曲以外現状で参加曲がないアイドルというのもいます。(勘違いであればすみません)
ましてやデレステでオリメンではないながらもイベントにて歌唱メンバーに選ばれているがためにいわゆる「オリメン過激派」から出演したイベント自体をよく思われないということも記憶にあるのではないでしょうか。
次にライブですが、これは言わずもがなではないでしょうか。
一度に出演できる人数はある程度決まっていますし、周年ライブの日数もたかが知れているでしょう。
そうなれば必然的に「周年ライブに登場しない人」は出てきます。
「露出の確約」とはいかないわけです。
(また、これは偏見かもしれませんがライブによる露出が人気の向上につながるのは、各ライブにつき「パフォーマンスで魅せ」たり「新しい一面を垣間見せ」た1~5人ほどであるように思われるためこちらにもあまり期待をしない方がよい可能性は高いです)
ちなみにこれはあくまでも「全員に声がついたとき」かつ「現状の運営方針」の場合であるため、この方向での現状の改善を求めるのであれば「全員に声つけて運営方針を変えろ」もしくは「俺の好きなアイドルに声をつけろ」となるわけです。
運営方針や「全員好きなんだけど」といった反論についての簡単な考察は理由②「全員生み出したのだから責任をとれ」論に対する意見の後に書かせていただきます。
それでは理由②の「183人生み出したのだから」論について考えていきましょう。
正直これはまあ一理あるのかなと思わなくないです。
消費者は13人ないし46人ないし37人、39人、50人、52人、そして16人の「全員に声がついているアイマス」が当たり前の状態になっているわけです(46人のものに関しては数に含まれていない6人ほどが問題を抱えている気もしますが)。サービス開始当初は特に13人がいた状態ということは「こんな膨大な人数がライブで躍動するのかも」と思いをはせてしまうこともあるでしょう。
「気持ち」として間違ってはいないと思います。
しかしシンデレラガールズは「ライブありき」のコンテンツではないでしょう。
言ってしまえば「アイドル全員を生み出した責任はなぜ『声をつける』ことでとらなくてはいけないのか」というところでしょうか。
また、後述する運営方針や「全員」の問題はここにも少しの答えを与えてくれるのではないでしょうか。
おまたせしました、運営方針と「全員」にしたときの問題についてのお話です。
運営方針についてですが、「全員に声つけたうえで均等な機会を与え、かつ売り上げていく必要がある」という制約があります。まず前提として「全員声をつける」コスト、そして「均等に機会を与えたことによる売上の不安定さ」というリスクを運営は負う必要があります。このなかで市場規模が小さくなってしまってはコンテンツの問題になります。もちろん機会を均等にすればとんでもない大当たり(の売上)が出ることもあるかもしれません。しかし企業にとって不安定さは効用の減衰につながります。
一度視点をずらしてみましょう。機会を均等化するとどのようになるのでしょうか。
たとえば
・モバマスで月4回、各4人(強SR1、弱SR1、R2)が登場するイベントが開催される
・モバマスでは月に4回、平均5人(SR2、R3)が登場するガチャが開催される
・デレステでは月に3回、平均4人(SSR2、SR2)が登場するガシャが開催される
・デレステでは月平均7人が新曲のメンバーに選ばれる
・デレステではイベントのSRが月に4回、各2人(強SR1、弱SR1)実装される(うち2回は新曲のイベント)
としましょうか。すると
登場 | 曲 | SR以上 | 上位や目玉 | |
モバマスのみ | 36 | 0 | 16 | 12 |
デレステのみ | 23 | 7 | 20 | 10 |
モバ+ステ | 59 | 7 | 36 | 22 |
といったところでしょうか。
今回は韓国組を除いた183人で考えましょう。
すると
登場:約3か月(93日)
曲:2年ちょい
SR以上:約5か月(152日)
強SR:8か月以上(250日前後)
の周期でどちらかのコンテンツで再登場することがわかりました。
この数字をどう見るかは人それぞれだと思います。
自分個人の問題としてとらえ「このくらいの周期なら今より頑張れる」と感じるかもしれませんし「俺は担当一人でやってるんだけどR待ちですら3か月待たなきゃいけないのかよ」かもしれません。
これを鑑みたうえで運営が「声優のオーディションという固定費分がこのような登場周期の均一化で回収できる」と考えたのであれば望みはあるかもしれません
しかし自分はこの数字のリスクの大きさは企業側が売上のためにわざわざとるものではないと感じています。
次に「全員」の問題点に触れましょう。
これはありとあらゆる「全員」という回答への苦言です。予めご注意ください。
唐突ですが「しずかさや いわにしみいる せみのこえ」の句はご存知でしょうか。
恥ずかしながら中学校時代の国語の授業での解説の受け売りですが、この句はいわゆる「蝉時雨」が情景として詠まれているそうです。
蝉時雨、つまり多くの蝉が鳴いている様子ですがそれが「しずかさ」という言葉で表現されているわけです。
もしかしたらこの句は論旨から外れてしまっているかもしれませんが、しかし全員を1人1人平等にみるということはつまり1人1人がその人でなくてはいけないという「かげがえのなさ」がない考え方であると考えています。
博愛主義者の方、残念ながら身近にはいませんが、はどうでしょう。あなたを愛してくれるかもしれません。しかしあなたがあなたである必要はあるのでしょうか。
博愛主義そのものを否定するつもりはありませんし基本的に全員「好き」であることは事実でしょう。しかしアイマスにおける「全員」という言葉には「誰か限定するとそれ以外の人がそうなることを望んでいないように思われてしまうのではないか」という思いが透けて見えることがあります。
現に知り合いには「全員担当。誰かをのけ者にするみたいでいやだから」という話を昔していたPがいました。この気持ちを悪いものだとは思いませんが、しかし「担当していないから好きじゃない」「声ついてほしいと明言しなかったらほかにはつかなくていいと思っている」という強迫観念のせいで結果として「自分の『特別』や『好き』をごまかしてしまう」のは得策ではないと感じます。
運営側ももしかしたらこういうことを感じているのかもしれません。
勿論この話に限りませんが気遣いは時に意見から理論を奪ってしまうので自分も含め注意したいですね。
ここで改めて確認ですが、声がついてほしいと願う理由は「露出が増えてほしい」「責任を取ってほしい」でした。
それでは「露出が増えてほしい」理由は何でしょうか。
①自分がうれしい・・・これが一番大きいでしょうか。納得ができます。問題点を挙げるなら「今既に出番がめっちゃ多いアイドルのPも同じ思いを持っている」ことでしょうか。彼らの思いを踏みにじっていい強い理由はないでしょう。
②知ってもらえる・・・これもあることでしょう。しかしここで注意したいのは「知ってもらえると何がうれしいの」ということでしょうか。機会が均等化されるのであれば人気であろうとなかろうと出番は回ってきます。もちろん「好きなものを周りに好きになってもらう」ことはうれしいことですがそれは強制するものではないですし「好きになってくれたらラッキー」というものでしょう。アイドルは183人もいるわけですから。また、周りから受ける影響というのは良いものもあれば良くないものもあります。これはあくまでも自分個人の意見になりますが「あくまでも大前提としてP(自分)とアイドルの物語」であることからするとなにかの空回りが見えることも少なくないです。
ト○タではないですが「なぜ?」を繰り返してみることも大事なのかなぁと感じます。
以上、「声がつくことをこの上ない魔法だと思ってない?」という記事でした。
読みづらい記事になってしまったかもしれません。
もし読んでいただけてたら幸いです。
ポジパ2曲目よりもNGの展開よりもサンセットノスタルジーが見たいし高森藍子は正直アインフェリアやスパロボコラボイベでそこそこ振れ幅作れたからゆっくりな歩みでもいいんじゃないかなと感じているがそんなことは口が裂けても言えないはせがわ
アイマスにハマった経緯
初めまして。オオマサです。最近暇なので書いてみます。
ただの自分語りになってますが、結論から述べるとアイマスってすごいね?ということになります。
暇なときの時間潰し記事にでもなればと考えてます。下書きに送られそう。
さっそくですが僕がアイマスにハマった経緯をざっくり表すと、
元々漫画好きだった
→「からかい上手の高木さん」にハマる
→作者のTwitterでASのファンアートが流れてきて気になりはじめる
→アニメを見始めたときにアイマスが気になっていたから観る
→毎話OP飛ばさずに観る
→25話ライブシーンでOPが流れて感動する(※)
みたいな感じです。
※ READY!!とCHANGE!!!!って鼻歌歌ってると途中でこんがらがるなぁ、と思っていたのが回収?されて「それだ!」と驚いたのと、あとは純粋に「最初無名だったこの子たちの軌跡は全部つながっていたんだ」と感動して大号泣しました。
上記のどれか一つでも欠けていたらアニマスに出会わなかったか、もしくは視聴がだいぶ遅れていたかなと思います。
またそれとは逆に、上記のどれにも関係ない生活を送っていたとしても何かの拍子にどれか一つに触れていたら芋づる式にアイマスにたどり着いていたかな、とも思ってます。
それまで好きなもの・趣味は漫画、ケツメイシ、スピッツくらいしかなかった僕はアイマスに出会ったことで本当に好きなものを手に入れることができて人生変わったなと真面目に思ってます(もちろんケツメ、スピッツも大好きでしたが)。
毎日の生活の潤いが数倍に上がりました。
今となってはPになる前の自分は何を糧に生活していたのか思い出せないですね…
テキトーに大学卒業して適当な企業に就職してのらりくらり生きていこうとしか考えていなかった自分が今ではある会社に就職したいとかぼんやり考えるようになったり、あとは同人活動をしたいと考えるようになったのもアイマスのお蔭です。
他には、それまで周りに同じ趣味・アーティストを追っかけている人がいなくて孤独だったのがオタクの友人やマッスル研究会の人と知り合って楽しさ・「好き」を共有できる環境に入れてすごく楽しいですね。あといろんなこと(コンテンツとかアニメとか)教えてもらえてそれも楽しいです。
素敵な出会いをくれたアイマスに感謝しています。
上に書いた経緯のように、アイマスはシリーズに関係なく日本のサブカルというんでしょうか、オタク文化の中に広く散らばっているような気がします。漠然とですが。だからこそ触れる機会が多くて色々な入り方をする人がいるんじゃないかなと思います。こんな大きなコンテンツはなかなか無いですし、やはりコンテンツ界の巨頭ですね。
あとは自分のように人の価値観、生き方を変えてしまうほどの影響力を持っているのもすごいと思います。
これくらいですかね。とくに本質とか書けたかというとそんな大層なこと書けてないですが、自分の中の考えを整理してみたかったのでやってみました。
ぐだぐだですが。
他の研究会の皆さんのアイマスにハマった詳しい経緯も知りたいです。是非教えてください!
オオマサ
ミリオンソロ曲とキャラソン
僕は昔からこう言っていた。「READY!!が苦手」「M@STER PIECEが苦手」
別に曲としてはめちゃくちゃ好きだし、思い入れも相当にある。SSAのマスピでぐちゃぐちゃに泣いた記憶もある。
ただ、あれは「アニメソング」であって「アイドルソング」ではない。
アイドルは与えられた歌を歌う。それを聴き、パフォーマンスを観ている客になにがしかの感動を与える存在であるはずだ。
数行前と矛盾するようなことを言うが、765ASは曲と物語の分離が完全になされた脱文脈的な歌詞作りになっている。
彼女たちのソロ曲は、その端々からアイドルを感じることが出来るものの、それは全くもってそのアイドル自身を歌った歌ではない、と言うのが素晴らしい。
そう言った意味では、シンデレラのCMシリーズも付かず離れずの距離感が素晴らしい。
それこそAngel Breezeとか。絶妙な「そうそう!このアイドルが歌いそうな“アイドルソング”なんだよ!」って感じを出している。
メルヘンデビューの『プロデューサーさんは~』のくだりは正直アレだが、まああれはセリフ部分なので我々が聴いてるのは一般販売用ではなくP向けに歌ったものと思っておこう。
勿論、ミリオンのソロ曲にも同様な歌が多い。
例えばdear...が好例で、あの歌詞は馬場このみ、その人のわけがない。だが、彼女を感じることが出来るいい歌だ。
だがしかし、ミリオンライブにはそのような歌もあるものの、やはり「キャラソン」感が占める割合が些か高いように感じる。
別に僕はそれらの曲が嫌いではなく、むしろ好きな部類だが、しかしながらそれらはアイドルソングではなく「キャラソン」という存在である。
我々プロデューサーはアイドル達の様々な面に触れることができるので、彼女らのことを表したキャラソンも深みを感じるが、ファン達はそうではないよなぁ、と。そしてアイドルの歌う歌はファンに向けたものであるべきであると、そう言った思いがある。
いうなれば、「ずるい」のかな?曲以外のバックグラウンドからエモさを引き出すというのは、もしかしたらずるいのかもしれない。
もちろんこれは売り方や制作の違いもあるのだろう。
ミリオンライブはそもそも楽曲制作の指揮系統も従来のAS、シンデレラとは違うし、作家陣も外注で異質なものとなっている。
それに、みんながみんな同じ曲作りをしていたら単調で飽きてしまうかもしれない。
ただ、ミリオンのソロ曲はアイドルソングだけじゃなく「キャラソン」も多い。という事は覚えておきたいし、理解してもらいたかった。
だけど、あくまでアイドルコンテンツとしての残滓として、ミリオンの曲もキャラソンに振り切っていない曲もある。そういった曲を無理に解釈するのは良くない、不毛だという事も覚えておいてもらいたい。
同志
Pミ2018行ってきた雑記
雑記。とりあえず覚えてることメモッとく。
まずそもそも、イベントとして両日めちゃくちゃ楽しかった。トークもいろいろな内容聞けるし、懐かしかったり、知らなかったり、まあこの辺は実際に行かなきゃ説明しても意味ないかなとも思う。
朗読劇もいいね。
そして確認されたのは、やっぱり俺は765プロのプロデューサーだよね、という事かな。帰った来た、ってのに近いのかな。
平田さんが「実家の味噌汁」って言ってたけど、やっぱ帰るべき場所は765なんだなって思わされるね。
今まで765プロと共有してきた時間は消えないし、この先もなんだかんだ765を見ていきたいと思っている。
1日目のテーマトーク中に中村繪里子が「これからもアイマスが続くのが楽しみ」的な客の意見を取り上げてた流れをぶった切って
「残念だけどアイマスはいつか終わると思う。毎回毎回これが最後かもしれないし、運がいいからこの次が決まる、それが続いているだけ。みたいな心持ち。」みたいなことを言っていた。
まあ揚げ足取りをすればこの規模のコンテンツなら流石に最後のイベントは告知するでしょみたいな話もあるけど(実際やや凍り付いた場を和ませるためか、今井麻美は「中村さん、明日もあります」って揚げ足を取っていた)それは置いといて。
やっぱり765Pには、この先の不安がある。でもそれは演者も一緒だったんだなぁってのを、めちゃくちゃに思わされた。
中村繪里子は765プロが「偉大だった先輩」ポジになることを危惧していた。沼倉愛美は泣きながら「アイマスを続けたい」と言った。
中村繪里子は手を離さないでと言っていた。765から手を離してしまったら、もう掴めないものなのかもしれない。
今井麻美は、この8月5日の終演挨拶をずっと前から考えてきたと話していた。しかし彼女は他MCに触発されて泣いてしまって、おそらくその内容のほとんどを話してはいない。
プロミ2017やtwitter等を考えると今井麻美もそのあたりのことを考えていたのではないのか?という感じがある。
あとはたかはし智秋と釘宮理恵。
理恵は、かなりオブラートに包んでたけど、いわゆる“釘宮はライブに来ない”時代の話とか。
だけど書こうと思うと書けないな。
酒飲みながら行ったオタクと話したいね。
ただLvは良くないね。オタクの話聞いてるとやっぱ全体見れなきゃだめだわこういうトーク系。歌なら中央の人抜いてればいいけど、トークは周りの反応を見れてこそだと思った。
メモはこんなもんだけど、たぶんまとめないよ。多分ってか絶対まとめないと思う。
あ、ただ、終わりよければ全て良し、的な感じで、終わり際にみんなこんな感じの話ししてたからそんな印象あるけど、全体としては最初に書いた通りワイワイガヤガヤまじで楽しかった。
同志
互換表に関するお話 はせ
お久しぶり〜〜(オタク特有の時を経たせたがるやつの発展系
てことで書いていきます
互換表あるじゃないですか。
「ミリオンライブのオタクに勧めるシンデレラガールズのアイドル」とか銘打って。
あれにオタクたち怒るじゃないですか。
互換に限らず。
「似てる」で一括りにされることに対して。
あれ気持ちわかるなーって思いながらなーんか違和感あったんですけど今ちょっとその正体わかった気がします。
多分嫌がってる人たちは一括りにされることによる「アイドルの情報の損失」を嫌ってるんだろうな、って感じなんですよね。
言うなればアナログ信者。こう書くとさすがに良くないけどflacとかlossless(綴りあやふや)みたいな感じ。
でも互換ってそういうことじゃないんですよね。
容量32GBのスマホで音楽聴くときに曲数多く入れたいからmp3にする、ってのもアリだと思うんですよ
だから互換を嫌がる人って耳が良すぎるんだなぁって思いました。
学んでいる分野の関係で「モデル化」ってのが結構密接?に関わってくるんですけどその感覚からすると少し嫌がりすぎなのかなぁとは思います。
まあモデル化する上でやり方が適切じゃないといけないってのはあるんでそこは考えどころなのかもしれません。
以上です。
……いつもに比べてめちゃくちゃ短いな????
たまにはこのくらいでポンポン出してもいいのかもしれないですね。
実は今回の話さっき気づいて結構「俺の違和感それだったか〜〜〜〜」って腑に落ちました。
耳も良くないのでファイル形式ごとの音の違いがわかってないはせがわ
楽しむことについてアイマスしか知らないオタクが御託を並べる はせ
ダミーサークルによる宗教勧誘みたい。 はせがわです。
忙しいはずなんですけど今日だけ気持ちに余裕があるので更新します。
ここ最近?でもないか、自分もたまに記事で触れている通りオタクのひりつき案件が多いように感じます。
今回はその全体に対する論調への話です。
先ほどTwitterを開いてTLを眺めていたところ「シンデレラを楽しめるのは"担当に展開があればそれそのものだけでうれしいと思える人"」という主旨のツイートがそこそこのいいねとRTとともに回ってきました。いいね、RTそのものが賛同ではありませんが一定の賛同が得られていると仮定したうえで話を進めていきます。
結論から言えばこの言説は大きな誤りである、という確信があります。
流れとして言説の確認をしてから問題だと感じた点をぐちゃぐちゃ書いていく感じでいきます。
それではまず、この言説の中身を紐解いていきましょう。
とはいえ、自分はこの言説を出した本人でもない上にこの意見に賛同しているわけでもない、さらに言えば"シンデレラガールズを楽しめる人"でもないためここから先の話は「自分から見えている"この意見に肯定的な人たちからのオタクの見え方"」となっていることに注意してください。
おそらくこの言説は先述したような「ひりつくオタク」との対比が裏に強くあることが想像できます。
理由は対比の意図がない場合別にする必要のない言説であるからです。
「楽しめる」かどうかなんて実際どうでもいいし、楽しめていないやつが目に入らなければ楽しむかどうかを規定する必要はない、といえば少しは砕いた表現になるでしょうか。
つまり、この言説の裏には最近目につく"楽しめてないやつら"がいるのです。
それでは楽しめてないやつらの特徴とは?
それは「ひりついてるオタク」に他ならないでしょう。
担当がこんな扱いをされていて許せない、モチベがわかない、デレステは本気でゴミ...
楽しくなさそう。確かにその通りかもしれません。
彼らは一度考えたはずです。楽しそうなオタクってどんなだ?と
その結論がささいなことに幸せを感じられるだったのでしょう。
たしかにそのような人たちは楽しそうです。それは間違いないでしょう。
それではいったいこの言説のどこに誤りを見出したのか。
それは
- 論理として強いことを言いすぎている
- 「ひりつくオタク」のまとめ方の問題
- 幸せや楽しいが一面的
といったものです。
まず、この言説を見直しましょう。
「楽しめる人は"喜べる人"」となっています。
つまり楽しめる人の全体集合をA、喜べる人の全体集合をBとすると
A⊆B
を言っている、ということになります。
つまり"ただ喜べない"人、Bに含まれない要素はA、つまり楽しめている人にあらず、と言っていることと同値です。
(先ほど自分も「確かに喜べる人は楽しそうである」という解釈をしましたがこれも少し危険な解釈、ということになります。
我々はしばしば元の命題が真であることの説明やそれを元にその裏や逆が正しいことを示してしまいがちである、という良い例でしょう。)
実際には先ほどの自分の"誤った"命題への解釈である"ただ喜べる"人は楽しめている人であるが正しいでしょう。
なぜか。彼らは「ひりつくオタク」ではないであろうことが予想されるからです。
彼らに見えているのはあくまでも「楽しくなさそう」であることのみ。
言説、というより命題が正しいとできる証拠がないため、一般には成り立たないと結論付けるべきなのではないでしょうか。
次は「グルーピング」の問題ですね。
これも正直憶測だらけなので注意してください。
彼らは"ただ喜べる人"やそれに準ずるものに自分を置いている可能性が高いです。全員ではないかもしれません。自虐の意味を込めているかもしれません。
しかしこれは多くの人にうなずいていただけると思っていますがいくら数が増えた(かもしれない)とはいえ「ひりつくオタク」がマジョリティーではありません。
ただ喜べる、すくなくとも「展開に対して文句を垂れる」ことはしないオタクがマジョリティーであるでしょう。その場合、最初の命題を支持している層のマジョリティーが「ひりつくオタク」である可能性はあまり考慮しなくてもよいと考えられます。そのためその前提のもと話を進めます。
そして、彼らはどうグルーピングしているのか。「喜べる側」と「喜べないときがある側(ひりつく側)」ではないでしょうか。
これは集合の区分としては行き過ぎているくらいラフである、というのが自分の見解です。
特に「喜べないときがあるオタク」に関して「楽しめていない」で括ってしまっているのは問題でしょう。
先述した通り彼らが確かであることを主張できるのはせいぜい「喜べる人は楽しめている」ことだけであり、それ以外のオタクに関しての言及はできません。
もちろん実際に直接言及はしていないのですが……
余りにもラフに区別したうえで最初の命題のような「強すぎる主張」をするとどうなるでしょう。
結果として俺らみたいな触れ方をしていないオタクは楽しめていないやつらなんだという決めつけにつながってしまうのではないでしょうか。
(少し話が逸れてはしまいますが気に食わないこと、人に対して「そういうことしかできないかわいそうな人なんだよw」という話に近いです
問題なのは彼らの行動自体でありそこに対して「かわいそう」や「楽しめてない」といった少しずれた意見はクリティカルではないと言わざるを得ません)
意見を出すうえで対象をラフにすることは有効ですが、そのときは言っている内容が確からしいものであるか、仮定の上に成り立っているのかを改めて確認する必要があるかもしれません。
最後に「幸せ」や「楽しい」の話です。
ここまで書いてきたように、今回の命題で自分が問題だと思っている部分の核となっているのは「楽しめるかどうかについての決めつけ」です。
楽しみ方が一つだけだと思っている
方はいませんか?公式の展開に対してごたごた無駄だと思えるようなことを考えてあーだこーだ言ってる人は楽しめてない
と思っている方はいませんか?これはPとしてのあり方につながってくる話であると感じていますが、結論から言えばただ受け入れることもあーだこーだ考えることも大事な楽しみ方なんです。
これをわかった上であれば最初の命題がいかに強すぎることを言っているかがわかるのではないでしょうか?
ここまで「あーだこーだ」書きましたがこの命題が意見として出されるというのはうなずける話だと思っています。
実際一つ前の記事
muscleresearch.hatenablog.com
で取り上げたような「ひりつき」に関しては自分は「騒ぎすぎ」だと思っていますし見ていて心地よくはないためです。
今回の「ツイート」もこのような「不快感」が根底にあったのかもしれません。
「何も感じなかった自分はおかしいのか?」「自分はコンテンツへの触れ方が浅いからひりつかないのか?」などと不安になった方もいるでしょう。
ただ、今回のようなまとめ方は結果的に自分たちの首を絞めることにつながる、と感じています。
なぜなら主語を大きくしすぎる、共感を得ようとして感情に訴えかけようとする...といったことをした結果
主張が誤ったものになってしまう
ためです。自分の感情は押し殺していいものではないですし感じたことや意見は表明していくべきでしょう。
しかし本質からは外れないように気を付けなくてはなりません。
最近見かけるアイマスやそのオタクに対する言説はこの部分を欠いているものが多いと感じ、少し危険である、と感じました。
例えば「ひりついてるやつがうざったい」のであればなにが「うざったい」のか、なぜ「うるさい」と感じるのかを考えてみてほしいです
その中で「そういう意見を持ちたくないから」というのが出てくることもあるかもしれません。それを認めたくないのかもしれません。
しかし長いものには巻かれることもあるでしょうし何も考えていないことに「こういう考え方があるんだけど」と言われたら「そうかもしれない」と思ってしまうのは仕方のないことだと思います
大事なのは「この意見を出している人には何が見えているんだろう」と考えてみることなのかなぁと、そう思います
ここまで長々と書いたものを読んでいただきありがとうございました。
ある程度構成を練ってから書き始めてはみましたが結構支離滅裂になってしまったかもしれません……
そして後半に関しては自分自身できているか怪しいところではあるのでより一層気を付けなくてはならないですね
精進します。多分。
[Twitterであーだこーだ言ってたらその内容とか前後の言葉とかそもそもあーだこーだ言うことそのものに知り合いから苦言を呈されたのでここの更新頻度があがるかもしれない]はせがわ